モノを選ぶ基準が、これからの自分に味をつける


「うちは全く服が片付けられないの!」


私が留学していたカリフォルニア州に住むホストマザーはそう言い、私を家のガレージに案内した。大きなSUVが2台入るほどのスペースには、車がない代わりに数え切れないほどのカラフルな服がずらーっと並んでいた。


それはまるで、コストコの衣服のコーナーの一角が家にあるようで、「安い時にまとめ買いをしてしまうの」と仕入れの鉄則を諭す業者のように私に話したことを覚えている。

ロサンゼルス空港から市内に向かう5車線ほどある広大な道路や、1人で食べ切れないほどのハンバーガー(というよりポテト)、年間330日ほど晴れると言われた毎日の青空を目にして、私はアメリカを実感することができた。


しかし、それ以上に”大量生産大量消費”を志向している家族と数ヶ月暮らすことで、「うわ〜おれはアメリカにいるんだ〜(ステレオタイプ)」とさらに実感が上書きされていったのだ。


自分の好きなことにお金を使う


所有することへの価値が減りはじめていると言われている。家や車や衣服などを持つこと自体に価値があった時代は変わりはじめていると。


高級なモノやモノを多く持つことで、他人に対して自分の経済力を誇示することは前時代的だ。と鼻息荒く話す若者も私の周りにはいる。


シェアリングエコノミーやサブスクリプションサービスなどのテクノロジーが、そういった変化をもたらしたと言われている。


しかし個人的には、「お金の使い道」があらゆるところに広がったことも、所有の価値を下げた要因なんじゃないかと思う。


家や車といった”人生におけるゴール”のような消費以外に、今の私が欲してる消費は多岐にわたっている。別に車や家を買わなくても、長い期間旅に出たり、大学院で学び直したり、海外に移住してみたりしようか、という選択肢も普通の選択肢として持ち合わせている。

(隙あらばニュージーランドに移住をしたい)


「どれも昔の時代からできることじゃないか」と思うだろう。でも、昔よりも個人が好きなことにお金を使うことに対して、社会が寛容になっている気がする。


もちろん、「家や車を買うことが消費におけるゴール」という共通意識は今でもあるかもしれない。だが、それをしなくても誰にも咎められないし、「お金の使い方は人それぞれだよね」という認識が広まってきているように感じるということだ。


人より高級なモノを持てば、そして、モノを多く持てば、幸せになれるということはなくなっている。自分の好きなコトにお金を使うことが当たり前になっているのだ。


モノを選ぶ基準


「これからはモノを持たない時代だ」 「好きなコトにお金を費やせ」


そんな時代だからこそ、「モノを選ぶ基準を持つこと」が求められていると私は感じる。


短絡的にまとめてしまうと、「高級なモノを持っていることがカッコいい」という文化圏にいれば、「一番高いモノ」を買うだけで良かった。「キラキラしたモノは権力を示せる」という国にいれば、「一番きらびやかなモノ」を買えばいいのだ。


そういったモノを選ぶ基準が、社会から与えられていると楽なのだが、そんな単純な時代にも文化圏にも、私は生きていない。「人それぞれでいい」と個性を持つことが当たり前とされ、自分の基準を持つことが必要とされる時代と文化圏に生きているのだ。


だから、私は歳を重ねるにつれて、客観的な基準に則して消費をすることの虚しさや無意味さを感じやすくなった。例えば、「社会的に高級というイメージがあるからxxのブランドを買う」とか、「誰にも知られていないから、この製品は買わない」とかいったことだ。


私にとって、自分の内側にある「好き嫌い」で判断できず、外側にある基準でモノを選んだ時は意志が弱い証拠になる。


モノを持たない時代だからこそ、自分が持つモノには、今まで以上にこだわりが生まれる。

お金の使い道があらゆるところに広がったからこそ、お金の使い方に個性が出る。


だから、「自分の基準」を持とうと思う。モノ選びに自分の基準を持つことは、これからの自分に味をつけるためにも大切な気がしている。


Text by ジュンヤスイ(@jjyasui