「何の宗教を信仰しているかと聞かれたら、君たちはどう答えるか」

その質問は、社会科教師から高校生の私たちに投げかけられた。高校1年の夏休み前の土曜日の朝、男子校特有の臭いがする教室での出来事だった。私たちは夏休みに実施されるオーストラリアへの3週間のホームステイを前にして、「海外とは何か」「オーストラリアとはどんな国か」ということをあらゆる教師から詰め込まれていた。


英語教師によるオージーイングリッシュの特徴を聞き、そもそも英語自体がわからないから、違いもくそもわからないと落胆した。留学経験のある教師による現地でのマナーや慣習の解説により、私は出発前からホームシックになった。社会科教師による白豪主義の歴史の説明は、東洋の国からやってくる高校生が歓迎されるとは思えなかった。


純白無垢な私は、情報を知れば知るほど未経験の海外に対して期待と不安が入り混じる気持ちになった。わけではなく、明らかに不安に偏るアンバランスな心境を持つこととなった。私にとって初めての海外は未知なことばかりだった。そして、その不安を事前にもみ消して出国したいと思うほど、当時の私には冒険心がなかった。


そんな心境だったからこそ、あまりにも局所的なシチュエーションかつセンシティブで聞かれることのないであろう冒頭の質問にも、異国の地で想定されるケーススタディとして真剣に考えたことを覚えている。



さて、その質問にはどういう意味があったのか。使い古されている議論だが、日本人は無宗教を自覚している人が多い。というのは、特定の一つの宗教を信仰しているという感覚が少ないからだろう。具体的な数は、文化庁の「宗教年鑑」に載っているが、信者の割合として多いのが仏教系と新道系と言われている。とはいえ、ラオスのルアンパバーンで行われる托鉢をイベントとしても日本で体験することはほとんどないし、御朱印集めやお遍路さんにそれほど宗教的意味を見出している人はあまりいないように感じる。


そして、私たちは宗教に関係なく、クリスマスを祝い、初詣に行き、バレンタインもハロウィンもやる文化を持ち合わせている。「これがあるからこそ、外国人からしたら話がややこしい」とその教師は言っていた。宗教が生活に密接につながっていることは今でもよくある。例えば、宗教により食べ物が制限されていたり、服装による規定があったり、行動規範が定められていたり。


だから、「何の宗教を信仰しているか」という質問は、「どんな行動規範を持っているか」という質問にも言い換えられる。それに対して、「私は無宗教だ」と答えた場合、「私の行動規範はない」ことを意味し、ひいては「この東洋人は何を考えているかわからない」と思われる可能性があったらしい。


だから例え事実と異なるとしても、「キリスト教の学校に通っています」だとか、「家は仏教を信仰しています」といった答えをした方が、人によっては安心感を持つ、というようなことを私たちに説明してくれた。(*あくまで高校生の時の記憶であり、個人の一意見です。)


当時の私はその質問に対し、教科書通りに「イエス、アイアム ブッディスト」と答えようと準備をしていた。ガウタマ・シッダールタの生誕地ルンビニーに行きたいと思ったこともなければ、悟りを開いたブッダガヤに巡礼しようとも思ったことがないのにだ。



「こういうものを信じて生きている」ということが当時は言えなかった。自分の人生で、自分が信じていることが何かわからなかった。だからこそ、そこの説明を自分の言葉ですることはできずに、与えられた答えを言うことしか私には選択肢がなかった。もちろん、そんな質問は聞かれることはなかったが、それ以来、自分の思考の支えになるものは一体なんなのだろうかと考えるきっかけにはなった。


宗教だけが人々の心の支えになるわけでもなくなっている。宗教を巡った対立は世界に残っているとはいえ、聖地奪還を目指した十字軍が出兵することはないだろうし、踏み絵でキリシタンを探し出すことも現代ではあまり考えられない。


私が生きている現代では、自分の支えになるものが身近になっている。インフルエンスを身につけて多くのフォロワーを携える人や、会ったことないオンライン上の人のメンターでも、今や人々の心の支えや行動指針になりうる。別にそれらの人を宗教の代替のものだとは思わない。ただ、心の支えにできるものは、世の中にあふれている。あの人が言うから間違いない、あの人ならきっとこうやるだろう。何者になるハードルが格段に下がったおかげで、信じられる対象がこれまでよりも広がっている。


私たちは、自分の足を稼ぎ、自分の目で見たものを信じることを信条にしているブランドだ。人から言われたことをそのまま鵜呑みにせずに、自分で一次情報を取りに行くことを良しとするブランドだ。何でも簡単に信じたくなるからこそ、自分が信じるものを見極めるブランドだ。



何かを信じることに正解はないし、批判もない。だからこそ、自分の芯の中に据えておくものはしっかりとなくてはいけないんじゃないかとふと思った。


今、冒頭の質問を聞かれたら、私はどう答えるだろうか。与えられた答えに頼らなくても、自分の芯を説明できるような生き方ができているだろうか。


Text by ジュンヤスイ(@jjyasui