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RYOSUKE GION STORY



小学生時代


小学生時代の僕はいわゆるガキ大将系のスポーツ少年。自分の気に入らない事にはYesと言わず、俺がルールみたいな。周りの人からしたら本当迷惑な奴だったことでしょう。


スパルタ親父のおかげで毎日朝5時30分から朝練、19時〜22時までは夜練。よくいう毎日素振り100回みたいな生ぬるいものではなく、手を血だらけにしながら毎晩最低600球は軍手ボールを打ち込んでました。そのあとにランニング7キロなどなど…


と、普通の小学生がしないような練習メニューをこなしていました。小学校において運動ができるというのは何よりのステータス。さぞかしいい気になっていたんだと思います。。


家ではちびりながら練習をして、学校では偉そうに威張っているという…そしていたずらをしては人を困らせ、毎日先生から呼び出されていた記憶があります。本当にどうしようもない子だったと思います。


それでも野球に関しては一生懸命で、岡山県で優勝するようなチームでキャプテンをしていました。当時、岡山で行われた選抜大会ではクリーンアップを打たせてもらったこともあり、自分はきっと将来プロ野球選手になるんだろうと信じてやみませんでした。

(小学6年生時の岡山県大会)




サボり倒した中学時代


そんな僕は中学校に入ってからも野球部に入りました。うちの学校では、上手な子や本気でやりたい子は地元のクラブチームで硬式野球を始めるのですが、僕の場合は勉強もしたかったのでおとなしく学校の弱小野球部へ入部。


今まで死ぬほど練習してきた甲斐があり、入部と同時にベンチ入り。すぐに試合に出してもらえるようになりました。




でもこれがよくなかった。




1年生で唯一3年生と混ざってプレーができる。練習をしなくてもレギュラーを取られないだろうと完全に自分を勘違いしました。そこからというもの、野球の練習なんてロクにやらず毎日毎日遊びまわる日々。部活に出てはサッカー部にちょっかいを出してみたり、陸上部と談笑したりという具合に。


そして中学3年生になる頃、岡山県の選抜セレクションが行われました。各中学校から数名が参加し、段々と人数を絞られていくというシステムです。セレクションを受ける前、僕は正直楽勝で選ばれるだろうと思っていましたが、結果は2次選考であえなく落選。


それもそのはず、一緒にプレーした周りの選手とは自分でもわかるくらいに差がありました。



とてもショックでした。



しかし一番ショックだったのは自分が代表に落選したことよりも、岡山選抜に選ばれた選手の中に3人も、小学校時代に同じチームでプレーした仲間がいたという事実でした。昔自分が彼らの中でキャプテンを務めていたことが信じられないほどに彼らとの実力差があったんです。


この3年間で追いつかれるどころか、はるか遠くまで置いていかれることになるなんて…。今までに味わったことのないレベルの悔しさに涙を流しました。。。高校に行ったら絶対に追いついてやる!と、その日から1日10kmのランニングを開始。


その後、彼らは県内の強豪私立。僕は公立の進学校へ進むことになります。




鬼軍曹と呼ばれた高校時代


中学時代に、サボることによって自分がどうなるかを身をもって知った僕は、高校に入るとただひたすらに、一心不乱に野球に打ち込みました。朝5時半に学校に行き、たった10分の休み時間も昼休みもバットを振りに行きました。


「上手になりたい。中学時代にサボった分を取り返したい。」




その一心で。




その結果、入学当初には自分の学年の中でもレギュラーになれないレベルまで実力が落ち込んでいた僕ですが、1つ上の先輩の代でもベンチ入りし、試合に出してもらえるようになりました。(先輩の夏の大会での結果は三振でしたが…)


先輩の引退後、自分の代では副キャプテンとしてチームを運営していく立場に。僕のいたチームは、監督ではなく選手が練習メニューを組み、自発的に活動することを目的としたスタイルでした。つまり、キャプテン副キャプテンがチーム全体の運営者となるわけです。


強豪私立高校には厳しいコーチや監督がいて、いつもとてつもないプレッシャーの中で戦い、レギュラーを勝ち取った者だけが試合に出られる。しかも朝から晩までひたすら練習に打ち込んでいる。


自分たちが彼らに勝つためにはそれ以上の厳しさと練習の質を確保しなければならないという焦りがありました。その結果僕が選んだのは“自分が鬼コーチと選手を兼務する”こと。自分にも他人にも厳しく、練習中に少しでも空気が緩むと怒声をあげてチーム全体を締める。一切の妥協を許さずチームの勝利が第一優先。Enjoy Baseball?ふざけんなといった感じ。


今考えると、なんとまあ短絡的な発想で他人の気持ちを考えない無茶苦茶なやり方だっただろうかと思いますが、当時は完全に本気でした。


そんな僕のわがままにも文句を言うどころか、一緒に夢中になってくれた大切な仲間。その結束力のおかげで僕たちはみるみる上手になり、強くなっていきました。周りの名だたる強豪校にも勝つことができるようになったりという具合に。入学時から不作と言われ続けた僕たちの学年ですが、段々と「おれらもいけるぞ!」と自信がついてきました。


公立の進学校ながら、僕たちは本気で岡山県大会に旋風を起こすことができると思っていました。全てを捨てて野球に取り組み、試合に勝つことだけを考えて取り組んできた3年間。甲子園だって夢じゃない!絶対みんなで勝ち取るんだと。


迎えた夏の大会当日、僕たちは自信に満ち溢れていました。あれだけの練習をしてきたんだから、これだけ強くなった俺たちなら絶対にやれると。




その結果は初戦敗退。

延長10回を戦い1-2で負け。


決して自分たちの力を驕って油断していたわけではありません。そもそも驕れるほどのチームではありませんでしたから。当然初めから自分たちのやれる全ての力を出して臨みました。今までの自分の全てを捧げてきた3年間はたった2時間で幕を閉じました。



非常に貴重な丸坊主時代(左)


大学受験失敗→野球引退


ただひたすらに練習に取り組み、勝つためだけに努力し続けた僕の3年間は1回戦敗退というあっけない結果に終わりました。心を鬼にして、何が何でも勝つためだと周囲を巻き込んでやった結果が初戦敗退。


自分のやってきたこと全てが間違っていたんだと感じた瞬間でした。それは、厳しさの先にこそ成功があるんだという考え方を真正面から否定された出来事だったと言えると思います。


引退後待っていたのは受験勉強でした。

将来は高校の先生になって野球部の監督になるのが夢でした。

そのために毎日12時間の勉強に励み、なんと最初の点数から350点近く点数がアップ。

センター試験後のデータではついに岡山大学教育学部のA判定がでました!!



はいきた〜!勉強頑張ってよかった〜

これで大学でも野球ができる!



あとは二次試験の体育を普通にやれば合格だろうと思っていました。


が、二次試験当日会場に集まったのは40人近い体育実技受験者。2人の合格枠を40人で争うことに。。。(どうやらこの年のセンター試験は平均点がダダ下がりだったようで、もっと上の大学を受ける予定だった賢い人たちも受験していてやたら多かったんだとか)引退後、学校の先生にめちゃくちゃなタンカを切っておきながら倍率20倍の前にいとも簡単に敗れ去ってしまいました。



目の前が真っ暗になりました。



自分の中で浪人という選択肢はなかった(あの苦痛がもう1年なんてのは想像できなかった)ので、後期センター利用を使って受かった関西学院大学に入学することにしました。しかし、僕の進学した学部のキャンパスは山の上にあり、どこに行くにもとてつもなくアクセスの悪い土地でした。


そして、ついに僕はそれまでの人生のほとんどを捧げてきた野球を辞めることを決意しました。




大学1年時にうつ病発症


今までの人生の全てと言ってもいいほどの野球を辞めたことで、心にぽっかり穴が開いてしまった。何に対して興味を持てばいいのか、何に対して熱量を注いでいいかわからなくなったんですよね。


サークルの新歓にも行ってみたけどそこでは一気飲みしてはずっとはしゃぎまわっている先輩たちの姿…


高校野球とのギャップからか、「しんど。」と思ってしまって。


もっと熱くなれる何かじゃないと俺の心は震えない。とか思ってましたかね。。とにかく蕁麻疹が出るほどにその雰囲気が嫌いだったのでサークルに入るのはやめにしました。全てに自暴自棄になった僕の周りに友達なんかできるわけもなく…


志望した大学に落選し、自分の夢を失い孤独になった僕は心と体を壊しました。不眠症に悩まされ深夜3時4時になっては近くの河川敷に行って猫とたわむれる生活。眠ろうとしたらいきなり「ドカーンっ」て爆発音がするんだから眠りにつくのが恐怖でしかなかった。



冗談抜きで辛かった。



古着屋に入り浸る


そんな時の唯一の心の救いといえば神戸にあった古着屋に通うことでした。古着屋って世間一般の人の生活スタイルから抜け出したアウトローな人が多くて、どんな話も否定することなく聞いてくれたんですよね。元々好きだった古着がもっともっと好きになって、深夜4時から原付で4時間以上かけて京都の古着屋まで行ったこともありました。


古着屋入り浸り時代。(刈り上げ金髪ミリタリーアフロ男)

今思えば大学で友達ができないのも納得か。※丸坊主からの反動という説あり




カバとの出会い

そんな人生のどん底みたいな感覚で生きていた僕に転機が訪れます。いつものように寝付けず何気なーく見ていたYouTube。おすすめ一覧にふら〜っと流れてきた「カバの猛威」みたいな動画をクリック(もう普通の精神状態じゃない)。


すると、そこにはライオン18頭に襲われながらもリーダー格のライオンの頭蓋骨をかみ砕いて悠々と立ち去っていくカバの姿が。今まで自分が思っていた草食動物と肉食動物の関係のイメージが全部覆された瞬間でした。





「かっけえぇぇぇ!これや!」





という思いと共にYouTubeにあるカバ関連の全動画を血眼になってあさりました。それこそ寝る間も惜しんで。次の日に王子動物園に行き実物を見に行ることに。





「でっけぇ〜〜〜かっけえぇ!」





もう完全にカバの虜になっていたんです。時間があればカバの生態について調べる毎日。国際政治学専攻にも関わらず、勝手に「カバの生態」というタイトルのレポートを提出。さすがに教授から怒られるかと思いきや、なんと特Aの評価を獲得。その後も週末に暇を見つけては動物園に行くようになりました。そんな感じで過ごしているとついには動物園では満足できなくなってきたんですよね…


昔、「ダーウィンが来た!」で見たようなもっと野性味あふれる彼ら本来の姿が見たいと。




そこで野生動物の王国、ケニアに行くことを決めました。




ケニアに渡航、初めての海外へ


せっかく野生の動物たちを見に行くのに1週間そこらのサファリツアーに参加するのは嫌でした。サバンナで暮らし、動物たちと同じ世界で生きる。そんな環境を探して見つけたのがイギリスの会社が主催する2か月間の野生のキリン保護プロジェクト。英語が大の苦手だった僕は全く喋れないまま単身アフリカへ。イギリスの会社主催のプロジェクトの為、現地についても日本人はゼロ。というかアジア人は僕だけ。15人中12人がヨーロッパから来た20代の金髪美女たち。。そりゃもうとんでもないカルチャーショックでした。


正直、早く帰りたい思いしかなくて毎日カレンダーを眺めていました。それでもそこで見た動物たちの本来の姿は僕に何とも言えない感動をくれました。


彼らの顔や体中にある無数の傷。どこまでも続く大草原を縦横無尽に駆け巡る動物たちの姿。弱肉強食のサバンナの世界を初めて目の当たりにし、心を震わせました。


サバンナでの暮らしは、日の出と共に起き、日の入りと共に寝るという野性味あふれた生活。インパラが毎朝家の窓をつついて起こしに来てくれるという僕にとってはほんとうに夢のような時間でした。人間本来の生活ってどんなものだろう?と考え始めた最初のきっかけといえるかもしれません。




(マサイマラ国立公園にて撮影)




ジーンズに魅了される


ケニアのサバンナでの暮らしの為に、当時行きつけだった古着屋でワークウェアを購入。日本に帰国してからもずっと着用するようになりました。大のワークウェア好きとなった人間にジーンズは避けては通れないファッションでした。


店員さんからジーンズの歴史やその当時の人々の暮らしを聞くにつれていろいろな想像がふくらみ、服をただの服として捉えるのではなく、そのバックグラウンドを考えて選ぶようになったのがこの時期です。





各国を一人旅


異国の地ケニアでの経験を受けて、異なる文化圏に身を置くことの楽しさを知った僕は


海外の国にどんどん興味を持つようになりました。2か国目に選んだのはドイツ。特にもともと興味があったわけでもなかったのですが、ケニアで仲良くなったドイツ人のジェニーちゃんが住んでいるからという理由で行くことに。彼女は、ケニアでも英語が喋れない僕にいつも気を遣って話しかけてくれました。僕のおっそい英語にも文句ひとつ言わずに頷きながら聞いてくれたんですよね。そんな彼女にきちんと御礼を言いたくて、ドイツのハノーファーまで会いに行くことにしたという訳。


現地の人の家に泊まり、現地の人に案内してもらう観光はとてつもなく刺激的でカルチャーショックの連続でした。御礼を言いに行ったはずがまた完全にお世話になってしまったのですが。。




ただその時、今までの自分の考え方や生活範囲が「わっ」と広がったような感覚になったのを覚えています。




そこからは早かった。バイト代を貯めては海外に出かけていくという生活スタイルに変わっていきました。とにかく新しいものを見たい、知りたい、感じたいという思いが日に日に強くなっていったんです。



その後、現地のローカルにできるだけ多く触れるということを目的に30カ国ほど周遊。


(東南アジアのどこかの道路)


(スウェーデンの名もなき教会にて)


(マサイ族の村にて)



とまあいろいろと旅をしてきたんですが、大学生活ももう直ぐ終わり。旅の中で培ったタフさ以外、何も身についていない現状に不安を感じていました。。。




イギリスに留学


このままいくと普通に就職活動をして次の年には働くことになる。たくさん海外を旅してきて、この頃には将来的に海外(特にアフリカ)で働きたいと思い始めていました。


一方で、日常会話程度レベルの英語力でビジネスができるとは思っていませんでした。ケニアでは危険な目にあった時に友達が助けてくれたけど、自分でビジネスをする際には自分の身は自分で守らなければならない。その為には更なる英語力の強化と異文化での生活体験が必要だと考えました。


そこで、イギリスに留学する事を決めました。(イギリスを選んだのはただかっこいいからですが…)


ロンドンのグリニッチで10カ月程生活しました。この時ヨーロッパを周り、ケニアで出会った友人達に再会する事もできました。心技体全てにおいて自分をスキルアップさせる事が出来たと思っています!




アフリカで働くべく総合商社へ入社


イギリスから帰国してから、日本での就職活動を始めました。僕の中で揺るがなかったのは、アフリカでビジネスができる会社であること。中でも大きなインパクトを与えるためには、資金も潤沢な大きなビジネスで広いネットワークをもった会社に勤める必要があると考えました。


そんな考えの中で興味を持ったのが総合商社業界。海外に駐在して現場に行って。泥臭い中にも確固たる信念があるからこそ頑張れる。そんな商社マンの姿をイメージして選考を受けました。



面接ではひたすら「カバ」の話と「アフリカに行きたいんです!」という話だけをした結果、運よく内定をもらうことができました。その時の僕は「これで世界を相手に仕事ができる!」という期待に胸が膨らんでいました。




就活中の違和感

(履歴書写真)


内定が決まったのはよかったんですが、僕が就職活動の時に感じていた違和感は尋常じゃありませんでした。そもそも365日ジーンズを着て過ごしている人間が毎日スーツを着て就活させられる辛さ。その圧迫感や違和感は尋常ではありませんでした。




Rockwell立ち上げ


入社してからも、アフリカで働くことのできる部署への希望は通らず、国内の自動車関係の部署に配属。もうこの頃にはすでに期待していなかったので何とも思いませんでしたが。


あまりの海外との接点のなさに拍子抜けしました。


アフリカなんて夢のまた夢。けどそれを夢で終わらせるか叶えるかは自分次第。

そう感じた僕は10か月勤めていた豊田通商株式会社を退職。


デニム屋として生きることを決めました.


現在の旅人用ジーンズ”JOURNEY ARMOUR"は、僕自身が沢山の旅をしてきた中での現代社会への違和感や思いを形にしたプロジェクトです。そしてもう一つ、ブランドの原点とも言えるアフリカジーンズプロジェクト。

このプロジェクトでは、国内で生産された最高級ジーンズをアフリカの農村・学校で履いてもらい、世界最高の色落ちをしたダメージジーンズを製作。人生のダメージジーンズアート展として個展を開くつもりです。そして、そのジーンズを履いていた人とダメージジーンズの購入者が直接やりとりができるシステムを構築。ジーンズを通してアフリカに友達を作り、お互いの国に対して興味をもつ。最終的にはお互いがお互いの国を行き来するような関係を作り上げたいと思っています。




これらを実現させるべく、とにかく前進あるのみです。




こうやって見ると、僕の人生はほとんど思うようにいってないことがわかります。自分の蒔いた種に痛い目を見て、それを克服するために夢中になってと。。これからもそんな人生なのかもしれないですが、それならとことん失敗してとことんチャレンジしていこうと思っています。